時折自分に問う。でも、返ってくる答えはいつもバラバラで、いつもしっくりこなかった。
そして、24歳にしてやっと一つの答えにたどり着いた。
死ぬときに「最高の人生だった」と笑いたい。
私はそんな人生を送りたいんだと。
生き方に対する答えは、死に方だった

どんな人生を送りたいかとは、一般的に、死ぬまでの期間をどのように生きたいかということ。
つまり、生き方を問われている。
大抵の人は、自分らしく生きたいとか、人の役に立つ生き方をしたいとか、生き方で答える。それが普通だし、質問に対する答え方としてはベストだと思う。
けれど、私は 笑って死にたいと、死に方を答えとした。
なぜ死に方が答えなのか

どんな風に生きたいかと考えているとき、いつも肩ひじ張って格好つけていた。
仕事で成功して生きたい、自分らしく生きたい、好きなことをして生きたい、旅をして生きたい、自由に生きたい、人の役に立つ生き方をしたい。どれも思うけれど、本当の自分の答えではないと分かっていた。
かっこつけの自分と等身大の自分との間に、分厚い歪んだガラスがある。ガラスで屈折して向こう側が良く見えない。
等身大の自分は何を望んでいるんだろう。
ある時、ガラスが割れた。そこに見えた光景は、死を目前にしながらとびきりの笑顔でいる自分だった。まるで「最高の人生だった」と言っているようだ。
それがとっても幸せそうで、自由に生きたいとか、仕事で成功したいとか、細かいことがどうでもよくなった。
あぁ、これなんだな。私が送りたい人生って。
途中経過がどうあれ、最後にこうありたい。生き方なんて決めなくてもいい、どうでもいいや。
そう思ったから、私は死に方を生き方への問いの答えにしたんだ。
笑って死ぬために生きる

最高の人生だったと思い、笑って死ぬ。
これが私の理想の死に方。そのためには、最高の人生だったと思えるように生きる必要がある。では、どうすればそう思えるのか。
それは、自分の全てを肯定し、全力で生きる。
そう生きた人生は、「最高の人生だった」と思えるのではないだろうか。私はまだ人生の途中にいるから、本当にそう思えるかは分からない。
けど、自分を否定し、力を出し惜しみして生きた人生を「最高の人生だった」と思えるだろうか。
「どんな」にこだわるのはやめた

生きている間、ずっと思い描いている「どんな」の部分。
それなのに、最後の最後にやっとわかる「どんな」の部分。遅すぎるよ。
でも、最後まで何があるかわからないから、決まらない「どんな」の部分。
「どんな」人生だったかは死ぬときにならないとわからない。
「幸せな」「つまらない」「変な」「最低な」「最高な」
何が当てはまるんだろう?楽しみは最後までとっておくんだ。死ぬときまでわからないからこそ人生は面白い。
自分の望んだ人生と違ったら嫌だし、死ぬまでずーっとわからないから、「どんな」にこだわるのはやめた。ただ、最後に「最高」だと思えるように生きる。それだけ。
笑って死にたい

死ってネガティブなイメージだけど、私はそうは思わない。死には生命の誕生くらい鮮やかな背景がお似合いだ。
どんな人生を送りたい?と自分に問うと、やっぱり答えはただ一つで。
死ぬとき、その最後の瞬間に「あぁ、最高の人生だったな」と笑いたいと思うんだ。