パートナーには「当然すべき努力の度合い」が同じくらいであってほしい

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当然すべき努力の度合いは各々違って当然だが、ある程度似ている人はいる。同じ職場や学校の人は似ている、話が合うと感じることが多いだろう。それは、その環境での「当たり前」が同じだからだ。

私は友人や同僚より、誰より、パートナーと同じくらいでありたいと思う。それが思っていたよりも遥かに重要なものだと分かったから。

「当然すべき努力」とは

「これくらいして当たり前」と思う努力のこと

人によっては努力と感じないくらいごくごく当然の範囲の努力。

例えば以下のようなことが挙げられる。

  • スケジュール管理やタスク管理をきっちりとする
  • 分からないことをそのままにしない
  • 本を読んで知識を身に着ける
  • スキルアップのために資格の勉強をする
  • スキマ時間でニュースを読む

自分は当然のことと思ってしていても、他人からしたら当たり前ではないのだ。

“当然”の基準は各々違う

「社会人として当然」「人として当然」とかいう“当然”の基準は、同じようで各々違う。

「いってきます」を言うのが当たり前の人もいれば、そうでない人もいる。

育ってきた環境、背景が違うのだから、モノサシも違う。そして、そのモノサシを携えて生きていく。

あまりに違う場合はストレスとなる

当たり前や普通はみんな違っていい。けれど、あまりに違う場合は一緒にいられない。自分の「当たり前」が通じないからだ。

  • 父親になったんだから今まで以上に仕事を頑張るのは当たり前
  • 赤ちゃんがいるからタバコをやめるのは当然
  • 子どもが生まれたら、普通はゲームよりも子どもと遊ぶ時間の方が大切だ
  • 今よりもいい生活をしたいから努力するのは普通のこと

これらが相手に通じなかったら、どう?

「普通って何?当たり前って誰の当たり前なわけ?」なんて言われたら、どう?

私は、怒りを通り越して呆れた。心にストレスが襲いかかってきた。

押さえつけられ、締め付けられた心は、負荷に耐えられず壊れてしまう。

「壊れる前に逃げなくちゃ」

そうして心は遠ざかる。

「これ以上話しても無駄だ」と思った時、現実、言葉の一つも出なかった。

このように、「当たり前」が通じないというのは、強大なストレスとなって襲いかかる。

同じくらいであることが重要

努力は人に強要できない

当然すべき努力の度合いが違うと、お互い理解出来ないし、ストレスが溜まる。

努力を人に強要することは出来ないし、「努力するな」と言うのもおかしなことだ。だから、この違いを合わせることはかなり難しい。

自分の「これくらいして当たり前」をパートナーが出来ていない時、ストレスがドバドバと濁流のようにやってくる。

「どうしてこれくらい出来ないの?」「こんなの当たり前のことなのに」

それは、仕事、勉強、子育て等、日常生活のあらゆる場面でやってくる。

それでもパートナーに努力は強要できないし、強要しても無駄なこと。努力とはあくまで自発的なものだから。自分の“当然”を押しつけることは出来ないのだ。

私たちはあまりにも違いすぎていた

結婚するまでは、だらしないところもかわいく見える。私がやってあげればいいし、なんて思ってしまう。

けれど、結婚してみて初めて分かった。

「当然すべき努力の度合い」があまりにも違うと、一緒に暮らしていけない。

恋愛と結婚は違う。恋愛と違って、結婚は自己犠牲の上に成り立つものではない。

結婚相手は人生を共にするパートナーなのだ。共に歩いていくのであって、一人で全てを背負っては歩けない。パートナーとは自分と同じくらいの感覚であってほしいし、「当たり前」が通じないとやっていけない。

多少の違いは問題なくても、時が経つにつれて多少ではないことに気付く。

自分の成長とともに、「少しの違い」ではなくなっていくこともある。

当然すべき努力の度合いが同じくらいであることは、思っていたよりも遥かに重要だった。

努力しなくたっていい

努力せずに生きていきたい人はそれでもいい。そういう人生もありだと思う。二人がそれでよければ、それはそれでいい。

努力しろ、と言っているわけではない。

重要なのは、努力の度合いについて似たような感覚であることだ。

私と夫は全然違っていた。娘には努力を知らない人間にはなってほしくない。その思いから、娘に努力する姿を見せたいし、夫にもそうあってほしい。努力は誰にでもできるゆえに、夫にも期待してしまう。

努力は誰にでもできるが、人の普通や当たり前は簡単に変えられない。だから、二人の「これくらいして当たり前」の感覚が似ている越したことはない、とつくづく思うんだ。

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